九谷焼 木米(もくべい)

 明和4年(1767)、木米は京の茶屋「木屋」に生まれ、多くの文人が出入りする環境の中で育ちました。11歳のころから、茶屋の常客 高芙蓉(1722-1784年 儒学者、篆刻家(てんこく 印章の作成をする者)、画家)から、書画や古器(古銅器・玉・古銭・古陶磁器)の鑑定、篆刻の技法を学びましだ。木米は、もともと器用で模古癖(古い書画・骨董を模倣すること)が強く、古銭や中国銅器の鋳造に手を付けていましたが、1795年、29歳のとき、父と姉を相次いで亡くしてから、煎茶を志向するようになり、やきもの(煎茶茶器)への関心を強くしていったといわれます。

 茶屋の常客であり高芙蓉と親しかった木村蒹葭堂(*1)を訪れたとき、偶然にも朱笠亭の著した陶書「陶説」(*2)を目にして、作陶への関心をさらに強めたようです。当時の文人たちが明代の磁器の意匠に敏感に反応して、京の美術工芸から多様な意匠や技術を取り入れた京焼に対し、文人が染付や呉須赤絵を求めていたことを知り、その陶書を見てなお一層その作風に関心を寄せたといいいます。

 木米の目の前で蒹葭堂が茶を煮る作法と煎茶器の美しさに惹かれ、その作陶に大いに関心をもちました。当時の文人の間では抹茶式の点茶法によらず、煎茶式に茶の葉を煮出しする方法が盛んとなり、煎茶が愛好されていたころでした。

 こうして、木米が製陶を志したのは、寛政8年(1796)、すでに30歳を迎えていたころでした。木米は、まず粟田焼の宝山窯(*3)にて和陶の作陶を基礎から学び、木村蒹葭堂から紹介された奥田潁川(*4)の門弟になりました。その後、粟田口の一文字屋の名義を譲り受けて自身の窯を開き、宝山窯の伝統技法と潁川の新風様式(明代磁器)を使って作陶に励み、さらに潁川から交趾などの中国古陶器の手法を学んで、次第に潁川の信頼を得ていたといわれます。

 享和元年(1801)、潁川の推薦で、紀州藩窯の改良(青磁の製陶、ただ適した陶石土なし)に携わり、さらに、文化2年(1805)、粟田青蓮院の御用窯師となりました。このとき、お礼を兼ねて「赤絵金襴手の茶碗と香合」を青蓮院宮へ納めたといわれます。そして、その年の11月、金沢の町年寄・亀田鶴山の訪問を受け、金沢への招聘を懇請されました。

(石川県立美術館から引用)


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